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峠の肖像 #5 富士スバルライン(山梨)現代の巡礼路

「富士山頂へ下駄ばきで」というスローガンのもと、舗装路が敷かれた

春の到来が遅い標高1800m地点。針葉樹林が顔を見せる。植物に明るければ標高が上がるごとに変化していく植生を楽しめるのだろうが、あいにくそのような知識は持ち合わせていない

史上初の富士登山

富士山を初めて登ったのは、聖徳太子だといわれる。11世紀の障子絵「聖徳太子絵伝」(秦致貞作)は史上初めて富士山が描かれた絵画として知られているが、なんといってもこの富士山を登る聖徳太子の足取りの軽やかさに目を奪われる。いや、厳密に言うならば太子のそれではない。太子は「甲斐の黒駒」と呼ばれる馬に乗っているからだ。絵画には立派な馬を駆った太子が悠々と富士山を越える様子が描かれている。考証によれば、これは西暦598年に相当するという。

これを富士山登山と呼ぶのには飛躍があるかもしれない。聖徳太子伝説の域を出ないとも言える。しかしこの時代、富士山は活火山であり、人々はこの日本最高峰の猛々しさを日常的に痛感していたことを考えると、太子という超人間的な存在に登はんの夢を託したとしても不思議はない。修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)もまた富士山を登ったとされるが、伊豆大島から空を飛んでの日帰り登山(!)だったというから、こちらも超人間の伝説である。しかし後に富士山を自らの足で登り始めたのは修験者たちだった。山頂を信仰した彼らの歩みはやがて登山道として一般民衆へと開かれていく。16世紀には、山麓に登山参詣者のための宿坊がたち、富士山一帯が栄えた。

昭和39年に開通した富士スバルラインは、昭和の時代を通じ観光道路のドル箱と宣伝された。どれだけ多くの人が、この道路によって富士山を身近なものにしたかは数え切れない。同時に、自然環境へも大きな負荷をかけた歴史もある

好景気と自家用車、そして富士スバルライン

2024年の初夏、富士スバルラインには、驚くほどの人出がある。富士山5合目に至るこの有料道路には、大型観光バスがひっきりなしに行き交い、他県ナンバーをつけた乗用車がエンジンを吹かしているが、最も目立つのはサイクリストだろう。サイクルジャージに身を包んだ老若男女がそろいもそろって、山頂を目指しペダルを踏んでいる。彼らにとっての山頂は、文字どおりの富士山頂ではなく5合目だ。距離24km、獲得標高1270mという登坂がこれだけのサイクリストを引きつけていることはにわかには信じがたい。登坂好きの国民性を考慮しても、あまりに長いヒルクライムである。

富士スバルラインが開通したのは、昭和39年4月1日。西暦にするとこの年がどんな意味を持つのかが明確になる。1964年。そう、初めての東京オリンピックが開催された年であり、日本中が所得倍増、好景気へ向かって猛進していた時代だ。自家用車が急速に普及し、都心部から富士山麓へのアクセスが容易になったことで、富士山を登る道路が待望された。信仰の対象としてかつて修験者たちが歩んだ道のりは、「富士山頂へ下駄ばきで」というスローガンのもと、舗装路が敷かれていった。高度経済成長とモータリゼーションの申し子として、日本一の霊峰富士を登る有料道路スバルラインは誕生したのだ。

富士山は民衆のための山

歴史を遡ると、富士山はかつてから民衆のための山だったことに気付かされる。17世紀には富士講と呼ばれる民間信仰が流行し、富士山を集団で登り参詣した。登山口にある神社に属していた御師(おし)と呼ばれる人が参拝と登山の世話役になったという。あまりに流行した富士講は、時の江戸幕府が禁令を発するまでになり、民衆と富士山の強い結びつきがうかがえる。

スバルラインの行き着く5合目に降り立つと、膨大な数の観光客に圧倒される。多くの大都市がそうであるように、外国人の数が多い。少ない日本人たちの顔ぶれを見ていても、信心を伴ってここまでやってきたようには見えない。彼らが信仰するものは「映え」であり、スマートフォンを通して富士山を捉えようと躍起になっている。そこにはかつての富士講信者が抱いたような、富士山に対する熱狂的な思いは伺えない。

ただサイクリストだけが、今日も富士山へカルト的な執着を抱いていると言ったら言いすぎか?

山頂を目指し黙々とペダルを踏み、時に息を切らせて進んでいく。自動車で気軽に上れる時代にあって、自らの肉体的な苦痛を受け入れて走り続ける。時折複数人のグループが上っていくが、先導役は快活で饒舌で、いかにも走り慣れている。現代の御師だ。

彼らが信仰しているものは、富士山であり、富士スバルラインの登坂タイムである。目指す頂きは、山頂ではなく5合目にある。エンジン付きの乗り物が登場してもなお、人はやはり自力で山を登りたがる生き物であるようで、その姿はかつての富士講の民と重なって見える。この25km足らずの舗装路こそが、現代の巡礼路であるかのようなのだ。

サドルの上から見る富士スバルライン

富士スバルライン料金所がはるか前方に見える長い上り坂で軽いギヤを回していると、ふと自分が巡礼者となったような気になる。ここから5合目山頂までは24km、ずっと上りっぱなしだ。上り始め、周囲にはアカマツ林が広がりすでに高地の様相を呈しているが、だらだらと緩やかな勾配で変化に乏しい登坂が続く。植物に明るければ標高が上がるごとに変化していく植生を楽しめるのだろうが、あいにくそのような知識は持ち合わせていない。それに、険しくない勾配をいいことに重いギヤを踏んでいるせいか、周囲の景色もあっという間だ。いいリズムをつかめると、調子が良いと錯覚する。

しかしクライマーズ・ハイに至ることはない。ある時点でふと我に返る。だいたいそれは2合目の標識が目に入ったときだ。まだまだ山頂は遠いことに気付かされ、一枚ギヤを軽くしてペースを落とす。無機質な道路と直線的な針葉樹にひとり取り残されたような孤独を覚えるが、進むしかない。周囲を取り巻く木々はコメツガに変わっている。
マイペースで走るのはいい。だが、喘ぎ声とともに猛然と追い抜かれることが増えてくると、あまりに消極的な走りをしていないかと自問が始まる。霊峰富士を、のらりくらりと走っていては敬意を欠くのではないか。全身で対峙して初めて体感できる富士山の霊験というものもあろう。3合目を過ぎて再びペースを上げていく。5合目まではあと10kmだ。

金銀銅への執着地点は巡礼道の終着地点でもある

本来的に人を寄せ付けない霊峰富士に、人が通るための舗装路を敷くという事業は偉大ではあるが、自然を過小評価するものでもある。2024年4月に4合目手前の大沢駐車場カーブへと流れ込んだ土砂は、ほどなくして撤去されその作業の迅速さに喝采が送られたが、本質的に山は人間を寄せ付けない場所であることを敏感な者は感じたはずだ

この日、4合目手前の大カーブは片道通行に規制されていた。春先の大雨により、この大沢駐車場の大カーブに土砂崩れが発生した。きれいに敷かれたように思われる富士スバルラインだが、富士山中に舗装路を通すというのはかくも大事業であり、そして自然に反したことであることを、まだ撤去しきれない土砂の残骸を横目に思う。実際、1964年に開通した富士スバルラインには直後から自家用車が殺到し(この年だけで30万台以上が走ったという)、排気ガスが沿線の原生林を枯死させてしまった。まったくもって自然の道ではなく、人為の道である。

標高2000mを超えて、沿道の木々の肌が白くなってきた。コメツガにシラビソが交じっている。それでも時折、カラマツの姿がある。土砂の流出を防ぐために人為的に植えられた植物。

スノーシェッドが現れ始めると、サイクリストは山頂が近いことを悟る。途端に緩む勾配に、下ハンドルを握る者もある。最後のスノーシェッドの向こうに観光バスが停滞しているのが見えれば、その先が五合目である。サイクリストの巡礼道の終着地点だ。金銀銅への執着地点とも言えるかもしれないし、全身全霊で上った者は憑き物が落ちたように煩悩から開放されているかもしれない。

いずれにせよ生身で5合目に至ったサイクリストは、かつて頂きを踏んだ修験者と同じ高揚を味わうことになる。聖徳太子が馬を駆り一足飛びに越えてみせた富士山を、今日はサイクリストがロードバイクで上っている。

スペシャライズド・Sワークス エートスで走る富士スバルライン

全長25㎞に及ぶ富士スバルラインの登坂で内省的な時間をもたらしたスペシャライズド・Sワークス エートス。サイクリングの本質的な喜びを見出すライド体験。富士スバルラインでの機材レビュー記事も合わせてチェックしよう。

富士スバルラインで味わった自由の感覚|Specialized S-WORKS AETHOS

富士スバルラインで味わった自由の感覚|Specialized S-WORKS AETHOS

2024年05月20日

 

※この記事はBicycle Club[No.456・2024年7月号 ]からの転載であり、記載の内容は誌面掲載時のままとなっております。
※誌面との連載Noとは異なります。

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PROFILE

小俣 雄風太

小俣 雄風太

アウトドアスポーツメディアの編集長を経てフリーランスへ。その土地の風土を体感できる方法として釣りと自転車の可能性に魅せられ、現在「バイク&フィッシュ」のジャーナルメディアを製作中。@yufta

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