
山との出合い。スタイリスト井伊百合子が語る、深呼吸の時間 | Life × Nature あの人の「スタイル」vol.6
VINAVIS 編集部
- 2026年07月03日
道具は「スタイル」の象徴だ。アウトドアとの向き合い方と、日々の暮らしが溶け合うあの人のスタイルを探り、愛用品を紹介する本連載。
第6回は、山で得た豊かな「呼吸」を日常になじませる、スタイリストの井伊百合子さんに話を聞いた。
編集◉宮﨑真里江
写真◉出口貴裕(スタジオ)
偶然の扉が開いた、大人になって初めての山登り

「山登りを始めたきっかけは、本当に偶然だったんです」
そう言って、朗らかな笑顔を見せるスタイリストの井伊百合子さん。雑誌や広告、俳優のスタイリングを手掛け、多忙な日々を送る彼女が山に魅了されたのは、いまから約6年前のこと。ふたりの子どもをもつ母親でもある井伊さんが、上の子の林間学校用の登山靴を買いに専門店へ出かけたことが、すべての始まりだった。
「スニーカーじゃ行けない場所に行くんだね、すごいね。なんて子どもと話しながら、店頭に並ぶ登山靴を見ていたら、なんだか自分もワクワクしてきて。私も欲しいなと思ったんです。ちょうどそのころ、周りに『登山を始めたよ』という人がちらほらと現れて、じゃあ私も行ってみたい!と、トントン拍子で最初の一歩を踏み出すことになりました」

じつは、井伊さんの父親も山登りが趣味だった。子どものころに連れて行ってもらった経験はあったが、当時はその魅力があまりピンとこなかったという。
そんな彼女が時を経て、大人になった自らの好奇心で向かったのは、山梨・長野県境に位置する金峰山。登山経験者の友人たちとともに一歩を踏み出したその日はあいにくの小雨で、霧が立ち込め、周囲の山々の眺望はゼロに等しかった。
「でも、私はまったくの初心者だったから、天気が悪いことすら、山の上ってこういうものなんだなと。視界の悪さや下界とは違う肌寒さも、なんだかとても新鮮でおもしろかった。もちろん、ちゃんとした登山は初めてだったので、ものすごくくたびれましたけどね(笑)」

スタイリストとして独立し、結婚・出産を経てからは、仕事と育児の両立に奮闘するスピード感のなかに身を置いてきた。「知らず知らずのうちに息を詰め、どこか縮こまっていたのかもしれない」と、井伊さんは当時の自分を振り返る。
そんな日常から一歩足を踏み入れ、霧に包まれた山のなかで彼女の身体が求めたのは、それまで忘れていた圧倒的な「呼吸」だった。
「登りでものすごく息が切れて、体ってこんなに呼吸を必要とするんだって体感したんです。天気が悪くて、すばらしい景色が見られる喜びはなかったけれど、山の香りや空気、五感で受けたことのすべてが、いま振り返っても本当にいい山だったなと思います」
無事に下山し、いっしょに登った友人たちと囲むテーブルでは、すぐに「今度はどこの山に登ろうか」という次なる旅の話で持ちきりになっていた。

体の声に耳を澄ます、五感を優しく満たす山の時間
「山には月に1回行けたらいいほうかな」と語り、仕事や子育てとのバランスを取りながら、マイペースなスタンスで山登りを楽しんでいる井伊さん。お気に入りの山域をたずねると、真っ先に挙げてくれたのが北海道の大雪山系だ。
「北海道の山々は、どこまでも広がる壮大な景色が魅力。淡々と一歩ずつ進んでいくと、最初は無理だと思った遠くに見える山までも意外と歩けてしまう。山の地図を自分の足で描いていくようなあの独特の感覚が忘れられなくて、夏には必ず足を運びたくなります」

今年も大雪山系を訪れたいと話す井伊さんを魅了しているのは、山の頂ではなく、とある「沼」なのだという。
「ヒサゴ沼というひょうたん型の沼があって、その場所が好き。多くの人は周辺の山々への経由地として通りすぎていきますが、私はそこを目的に足を運び、テントを張ってすごします。あの静かで美しい場所でのんびりすごす一日が、本当に愛おしい」
山登りを嗜むようになってから、仕事の仕方も生活への向き合い方も「すべてが変わった」と井伊さんは語る。
「気がつかないうちに、無理を重ねて感受性が少し鈍っていたのかもしれない。山で淡々と歩き、呼吸に耳を澄ますうちに、『もっと自分の声を聞いてみよう』と自然と思えるようになりました。余裕をもって生きること、ちゃんと遊んで休むこと。その大切さに気づけたのは、山と出合えたからです」
余白のない日々に、山という存在が心地よい一筋の風をとおしてくれた。そんなふうに自分のベースを取り戻した山道で、井伊さんは70代、80代になっても元気に山登りを楽しんでいる先輩たちに出会う。彼らから見れば、40代の彼女はまだまだ若者だ。
「『私が山を始めたのも、あなたくらいの年齢のときだったのよ』なんて声をかけてもらうこともあって。そうか、あと何十年とこのすばらしい遊びを続けられるんだ、と思うとうれしくなりますよね」

スタイリストの視点がのぞく、まとうものの選択
井伊さんは大の読書家だ。日頃はジェンダーや哲学といった、人間の内面や社会の仕組みを深く考察する本を好んで読むというが、山と出合ったことで、読書の世界にも新しい扉が開いた。
「山を実際に歩くことと同じように、山に関連する本を読む時間が好きです。かつての文化人たちが山を嗜むように登り、そこから思索を深めていった歴史を知ると、山と哲学、あるいは文学の世界はつながっているんだなと感じます。串田孫一さんの本はどれもおもしろいですし、熊谷榧(かや)さんの本も、読んでいて自由な気持ちになれるのでおすすめです」
スタイリストとして活動する傍ら、ファッションの世界で磨いた審美眼を活かし、老舗の着物店から生まれたブランド「THE YARD」のアドバイザーを務める井伊さん。日本の伝統的なものづくりにも深く関わる彼女にとって、山での装いとはどういうものなのだろうか。
「山を始めるまでは、アウトドアブランドの背景を深く掘り下げるようなことはしていなかった。でも、実際にフィールドへ行くようになると、すれ違う人たちの着こなしがすごく気になって。みんなどんなウエアを着ているんだろうと観察したり、じゃあ自分はなにを着ようかと考えたりして、山のファッションもおもしろいなと感じるようになりました」

そんな彼女が惹かれたアウトドアブランドのひとつが、北欧・スウェーデン発祥の「クレッタルムーセン」だ。
「アウトドアウエアは視認性を高めるために原色のアイテムが多い。でも、クレッタルムーセンの色使いは、まるで自然のなかから抽出したかのように、山の景色にすんなりと美しくなじみます。それが、日本の着物の感覚、つまり柔らかな光の色や、季節の移ろいのなかで咲く花の色を着物と帯で組み合わせるスタイルに似ていて、とても惹かれるんです」

井伊さんが着物の世界に興味をもったのは、30代を迎えたころ。洋服のおしゃれをひととおり楽しみ、その先にあるものを模索していたときだった。ルールがあるようでなく、自由でいい現代のファッションとは対照的に、着物には確立された美しい型とルールがある。
「縛りがある世界に入っていくことが、当時の私には逆に新鮮でおもしろかった。大枠があるからこそ、そのなかでどう自分を表現するかという新しい視点が生まれました。例えば、洋服のスタイリングにおける色合わせのルーティンなんかも、ぐるりと変わりましたね」
洋服に、着物に、そして山の道具に。スタイリストとしてのたしかな感性を注ぎ込みながらも、いまの井伊さんのもの選びには、どこか肩の力が抜けた、大人の軽やかさが漂っている。「ちゃんと遊んで、ちゃんと休む」。山が教えてくれたそのシンプルな大切さが、彼女の日常とこれからの生き方に、自由で心地よい風を送り続けてくれるのだろう。
- スタイリスト 井伊百合子
Instagram:@yurikoe
HP:https://yardtokyo.com/stylist/yuriko-e
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PROFILE
VINAVIS 編集部
アウトドアフィールドへ誘うメディア、そして自然のなかにいるような心地よさと冒険心をもって生きる人々を応援する新メディア。厳しい自然環境で磨かれた「機能美」や「哲学」を、都市生活というフィールドにマッチするシーンにを訴求します。またアウトドアで使われる機能やアイテムに触れることで、意識せずに自然とフィールドへと近づいていく気運を醸成します。
アウトドアフィールドへ誘うメディア、そして自然のなかにいるような心地よさと冒険心をもって生きる人々を応援する新メディア。厳しい自然環境で磨かれた「機能美」や「哲学」を、都市生活というフィールドにマッチするシーンにを訴求します。またアウトドアで使われる機能やアイテムに触れることで、意識せずに自然とフィールドへと近づいていく気運を醸成します。



















